ヨコの日記

大学生のアウトプット用の日記です。

手作り

中学生の頃から、デパートやショッピングモールに行くたびに、財布を探してる。

長財布は大きくポケットに入らないので、コンパクトな二つ折りの財布が欲しい。

いいな!と思った財布もあったが、小銭が出しづらいなどの機能的に不十分でなかなか気に入ったものが見つからない。

なかなか見つからないので自分で布財布を作ることにした。

 

裁縫初心者が折りたたみ財布を作るのはハードルが高いので、手始めに簡単なペンケースを作った。

使わなくなったジーパンの生地を使った

1つだけのつもりでいたが、気になったペンケースにしたかったため、3つも作ってしまった

第1号 小さすぎてペンが入らず

f:id:awechang:20201215222110j:image
第2号 形が微妙!もう一回!

f:id:awechang:20201215222118j:image

第3号 完成!!

f:id:awechang:20201215222114j:image

このペンケースのお気に入りは、

チャックもジーパンのチャックを使っているところです。

 

第1号のペンケースは筆箱として機能していないので、今お財布として使っています!

お会計で、このお財布を出すたびに、なんだか楽しくなります。

自分で手間暇かけたものを使うと、気持ちいいです。

意思

 

The Blue Hearts甲本ヒロトのインタビューを見た。(2012年雑誌インタビュー)

ザ・ブルーハーツというバンドは、「リンダリンダ」「夢」「トレイントレイン」などの代表曲をもつ。

f:id:awechang:20201214231619j:imagef:id:awechang:20201214231636j:image
f:id:awechang:20201214231631j:image

(2020年、テレビ出演時の写真)

ーーーーー

「カッコいい人」とかさ、

「やさしい人」とかさ、

「いい人」っていうのはさ、これは他人が決めることなんだよ

いくら本人が真っ当だと思っていてても、

結局、他人の見え方なんだな

それによって、

「いい人」だったり「やさしい人」っていうのが決まるんだったら、

もう他人の目に優しく写るしかないじゃない?

その努力ってなんだろう?って思うと、

それは「意思」なんだ、

自分がやさしいかどうかなんてどうでもいいんだよ

 

生きてるとさ、

「ヤな奴だよ、俺」って思う時あるじゃない?それはどうしょうもないんだよ、

ヤな奴なんだよ

これは変えられないんだよ

その瞬間の自分は変えられないんだ

そうすると、

「このヤな俺をいい人に見せるにはどうすればいいんだ」って、取り繕うじゃん?

もうこれなんだよ!

「やさしい人」のあり方っていうのは(笑)

これしかないんだよ、

なんかヤなんだけどさ、ジレンマはあるんだけどさぁ、

「やさしくなりたい」という意思、

それはすごく大切だと思う

そして、それを持つこと、恥ずかしがらないで、照れないで、

一生懸命「やさしい人になりたいなぁ」と思い続けること、

そして、たとえ自分の中身がやさしくなれなくても、あきらめないで、

「ヤな奴のまんま」やさしく見られようと努力すること。

《俺は毒ヘビなんだ、毒ヘビだからそう思うんだよ、だから自分を曝け出す出すんじゃなくて、ワンクッション置いて「素敵だなぁ」って、思うようになってほしい》というその「意思」を1つかませることで、その「意思」を素敵だなぁと思ってほしいと思う。(=それは「やさしい人」になってほしい。と意味)

ーーーーー

 

 

私は、昔のブログでも書いたが、よく人の目を気にしてしまい、人前で思い通りに振る舞えないところがある。

「こう思われたい」「こう見られたい」などの欲望の前に、

「私はこうありたい」という意思があると、そんなこと思えなくなる。

 

「やさしい人であろう」とすることを素敵だなぁと思うことが、意思を持つ一歩となる。

 

(インタビュー記事なので、読みづらい部分があります。)

 

 

個性

三島由紀夫は、

個性とは戦い抜くことだ」と述べた。

鼻が大きすぎたら、隠すことなく、自信を持って、世間に「鼻が大きくて何が悪い、鼻が大きいと魅力的だ」と思わせるまで、戦い抜くことこそが「個性」である。

 

 

自分の「個性」をだすために、近頃東京などで流行っている斬新な髪型をいち早くインスタで見つけて、美容室で「この髪型にして下さい」なんて言うのは、個性のない人間に等しい

 

個性」を出すために、着ていた「少し変わった服」も、それを見て、多くの人が着出すと、人々は「みんなと同じようになりたいという欲求」が生まれ、「少し変わった服」をみんなが着るようになり、一種の制服化し、なんの「個性」でもなんもなくなる。

 

「個性」と「人間の心」の間では、

みんなと違っていたい」という気持ちと、

みんなと同じになりたい」という気持ちが、

いつも争っている。

 

自分のその「個性」は、どこからきた『個性』なのであろうか。

 

 

 

一部 

著者 三島由紀夫『行動学入門』より引用

f:id:awechang:20201213003254j:image

https://www.amazon.co.jp/dp/4167124017/ref=cm_sw_r_cp_awdb_imm_c_gqo1Fb944G0FR

 

 

 

 

 

 

重い関係と深い関係

相手の感情を間接的に窺うようなコミュニケーションをしてしまうことがある。

 

現代の若者は、友人と話しいても、ずっと心の底では、「自分の今ある居場所が失われるのでないか」という不安をベースにした感情が渦巻いている。

そのため、「意味がありそうに見えて、何も意味がない《不安の埋め合わせ》のための会話をしている。《不安の穴埋めに役立てば何でもいい》というだけの《似非コミュニケーション》が溢れている。」

 

その《似非コミュニケーション》こそが、冒頭に言った『相手の機嫌を窺うよなコミュニケーション』である。

それは、とてもつまらない会話で、重い関係である。

 

嫌われることを恐れて、嫌われないような非をなく可もない話をする人と、会話して、楽しい人はいるわけない。

そんなことに気が付いた。アルバイト先では、こんな会話ばっかりであるため、親しい人は少ない。

 

不安を埋め合わせるための重い関係でなく、相手のことを自分の事のように喜び、素直な会話ができるような深い関係を目指したい。

 

 

 

甘酒

バイト先に嫌いな人はいる?と聞かれた。

別に、特にいない。

じゃあ、好きな人はいるか?と聞かれた。

いるが、少し好意があるぐらいである。

最近、何の食べ物が好き?と聞かれた。

甘酒であるが、美味しくない。

 

会話の中、生活の中、自意識の中で、

幾度もなく判断を迫られるが、

自分の感情は、

Yes or No、好きか嫌い、良いか悪いかのような二者一択でもないのかも知れないと思った。


・ヨーロッパ的な「ものの捉え方」は、

「ある」 か 「ない」だけであった。

しかし、

・古代インドの「ものの捉え方」は、二者一択でなかった。

1. ある   2. ない

3. あるのでもなく、ないのでもない

4. あり かつ ない

→4パターンの考え方があった。      Yes=①とNo=②の間の「中間」=③④があった。(この考え方はとても難しい。省略します)

 

今の食べ物(スナック菓子とか菓子パン)は、口に入れた瞬間、ダイレクトに味が伝わり、直ぐに好きか嫌いかが分かる。

味がハッキリしている。

 

しかし、何故だかわからないけど、ずっと昔から食べられ続けてきた今もある食べ物は、味がハッキリしていないものが多い。

「美味しさ」がぼんやりしていて、おいしくもないけど、まずくもないものがある。

 

自分にとって、それが、甘酒だった。

だから、色んな甘酒を飲んで、ぼんやりとした中から、「美味しさ」を探している。

そんなことをしているうちに、「好き」になった。

 

世の中のモノを、全て2つに分けなくてもいいのかもしれない。線引きは慎重に。

「好き」か「嫌い」か分かんなかったら、「待ってみる」ことも大切かもしれない。

 

関連本

郡司ペギオ幸夫「やってくる」

f:id:awechang:20201211000548j:image

https://www.amazon.co.jp/やってくる-シリーズ-ケアをひらく-郡司ペギオ幸夫/dp/4260042734

 

 

 

 

 

反省

オードリーのオールナイトニッポンをここ一年ぐらい聞いている。

 

11月初めの回を聴いていたら、 

 

若林 「春日って、スベるとへこむの?てか、反省するの?」

春日 「するにはするよ、なんでとっさに面白いこと、浮かばなかったんだろうみたいなことを」

 

みたいな感じで、オンラインライブを終えたこともあり、「反省」について、オードリーの2人が話していた。

 

私は、その春日のコメントを聞いた後の若林が放ったコメントがとても印象に残った。

 

「努力して改善されることと努力して改善されないことが、20年(芸人を)やってると、自分の性質を知って、分かるようになる。… だから、自分にはできないと思ったこととかは、反省しない。」

 

「反省」って、自分がどれくらいできるか知らないと、きちんとした「反省」ができない。

というか、自分は今まできちんとした「反省」をしたことがないと思った。

 

自分の限界を知り、一度自分はこのぐらいなんだなと、自分の実力を受け止めることから始めるのが、「反省」するという意味だと感じた。

 

若いうちは、自分の浅ましい姿というか本当の実力、レベルを認めらない。

 

一生やっても、「出来ないこと」を今日も出来なかったと反省するのは、とても悲しく、屯馬である。

高望みの反省は、「擬似反省」で、反省することが目的になってしまっている。反省は、手段である。

 

 

私も反省したい。 

私は「反省」を行う技量もないはずなのに、「擬似反省」ばかりしていた。自分のレベルを知らず、「擬似反省」ばかりしていたことを認めて、初めてきちんとした反省したい。

 

 

 

意味付け

ニーチェは、人生の意味について、次のように言った。

「意味が見つからないから良き生が送れないのでなく、良き生を送れないから意味にすがるのだ。」といった。(宮台真司,1998) 

 

 

社会学宮台真司氏の本を読んでいた時、紹介された。

これを読んだ時、「人生の現状に不満がある人は、人生に意味付けをするんだ。」と他人事のように感じた。

 

後で、もう一度読んだとき、ハッとした。

「中学校、高校の時の自分じゃん。」と記憶が蘇った。

 

高校の時、とにかく自分の周りのことに対して、不満ばかりだった。そして、とにかくいい人生を送りたいと願うばかりであった。

 

そのため、人付き合いや学業で躓く度に、哲学書、名言集を開いて、気になった文章や言葉を選んで、「生きる意味とは、こういうことだ!」と納得していた。

ものすごく、「生きる意味」を探し、人生を意味あるものにしたかった。

 

今も「生きる意味」を探しているかもしれないが、今は少し「いかにどう生きるか」を考えて生きているように感じる。